新製品は、いつも未来の顔をしています。速く、軽く、正確で、迷いなく。まるで、写真の「失敗」や「偶然」をすべて回避するために設計されたようです。それはたしかに魅力的で、便利で、刺激的です。
でも、その圧倒的な性能の前で、なぜか少し息苦しさを覚えることがあります。そしてふと、あの少し重くて、反応が遅くて、でも手に馴染む“自分のカメラ”を手に取ってしまうのです。

Photo by Hiroto
記憶の媒体としてのカメラ
“自分のカメラ”には、過去の自分の視点が刻まれています。レンズを通して見た景色、撮ろうとしてやめた瞬間、ピントが外れたけれど忘れられない一枚。

Photo by filmtaaabooo777
それらの断片が、機材に刻まれた微かな傷や手触りに静かに残っているのです。それは「記録された写真」ではなく、「写真を撮っていた自分そのもの」へのアクセスなのかもしれません。
手に馴染む時間の重み
自分のカメラには、撮り重ねた年月があります。シャッター音の癖、レンズの曇り、グリップの擦れ、それらは欠点ではなく、物語です。
手にするたびに蘇る撮影の記憶や、そのとき抱えていた感情。その「手触り」が、自分の表現に深く結びついているからこそ、簡単には離れられないのだと思います。

Photo by スサダイキ
完璧ではないから、向き合える
最新機種は、まるで何もかもを補ってくれるような安心感があります。でも、不完全な道具には、自分の工夫やまなざしが入り込む余地があります。

Photo by yamori|studio
ピントの甘さも、ノイズの多さも、ときに表現の味になります。「このカメラでどう撮るか」を考えることは、「自分はどう見ているか」を問い直すことでもあるのです。

